お酒と、
音楽と、
会話。
オーナーの持つ世界観で、
一日の疲れを癒す、それがバーだ。
最初の緊急事態宣言が解除された時、
リモートワークを継続すると判断した企業は多かった。
オフィス街だけでなく、住宅地の駅周辺も、
静かな光景が続いた。
定期的に復活するも、すぐに元に戻る。
その繰り返し。
【とあるバーの話】
東京にある、とあるジャズバー。
地域では古くからある有名なお店で、
会社帰りのサラリーマンが疲れを癒しにやってくる。
マスターが趣味で集めたジャズのレコードが並び、
時間帯によって選曲が変わっていく。
ウッドベースの丸い音が床を響かせる。
豊富な種類のお酒はもちろん、
マスターの人柄に魅了されて常連になった人は数え切れない。
2020年、コロナ感染拡大により一気に店から客足が遠のいた。
マスターの店だけではない。
町全体が静かになった。
感染を気にしてこなくなった人もいるが、
何よりリモートワークの普及で、常連客の来店頻度がめっきり減った。
ある時、打合せで外に出ていた常連客が店に訪れた。
マスターは「やあ、元気そうだ。さあ、座って。」と笑顔で向かい入れた。
店内にはその客とマスターだけで、
久しぶりの会話に時が流れるのも忘れた。
20時半を過ぎた頃、客がジンライムを頼んだ。
時計を見たマスターは、
「申し訳ない。これがラストオーダーだ。」
と言った。
17時からオープンして、2時間ほどお客が来るのを待つ。
ようやく人が来たと思ったら、21時で閉店。
常連客は、マスターが作ったジンライムをじっと見つめ、何かひらめいたかのように顔を上げてこう言った。
「ねえ、マスター。昼間、ここを仕事場として使わせてもらえない?」
「ええ?仕事って、酒場だよ?」
マスターは、何を言い出すんだと言わんばかりに笑って客を見た。
「だってさ、もうぼちぼち1年だよ。リモートでの仕事。
家には子どももいるし、自分の空間がないんだ。それにもったいないよ。日中店使ってないんでしょ?
僕だけじゃなく、他にもこういう場所を求めてる人結構いるよ。」
マスターは、
「一度、考えるよ。連絡する」
と常連客に伝えた。
常連客はきっと、この店を守りたいと思って話した案だろう。
マスターはそれをわかっていたし、だからこそ複雑な思いになった。
昼間に営業をやってみようかと考えたことはあった。
弁当をテイクアウトで売るくらいならできるのだが、どうしても踏み出せなかった。
理由は同業者ならわかると思うが、
長年やってきたバーの歴史と、作り上げた空間を壊してしまうかもしれないということ。
ただ、常連客の案は少し心を動かした。
夜とあまり変わらないスタイルで営業できるかもしれない。
1ヶ月後、日中のマスターの店からジャズが聴こえた。
店内にはノートパソコンで静かに仕事をしている男性が数人いた。
あの常連客と、プログラマーの男性、フリーのコンサルタントの男性、とある企業の企画部の男性。
休憩時間にマスターにコーヒーを注文し、笑いながら仕事の愚痴を話す。
店中にコーヒーを淹れる香りが漂い、マスターはお手製のピクルスを仕込みながら話を聞いていた。
打合せに訪れた一人の男性が店内を見渡して、目をキラキラさせて「いいね」と言った。